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これ、当たってるんじゃないか。
振り返ってみれば、昭和の歌謡曲はその世界を取り仕切っていたやくざというフィルターが常にかかっていた。やくざが感心しないものは決して歌謡曲にならなかった。特に女性アイドルは、ほとんどの場合男の視線に忠実な歌ばかり唄っていたし、特撮オープニング音楽も、女の子向けとなると途端にどうしようもなく適当なものになっていたりした。
そういえば、ヤクザこそファッションリーダーである、ヤクザの取り入れたものが男性ファッションとして広まる、という説があった。今はどうなんでしょう。

2009-09-28 at 19:07
ここで言われているヤクザとは、
演歌や映画で結晶となっているイメージの世界ではなく、
現実の芸能界をウラで仕切っているほんまもんのヤーさんのことのようですね。
よぐわがんねえ。
やくざ=プロデューサ、興行師とか言うんなら、やくざであろうとなかろうと
プロデューサのフィルターがほとんどすべてと言ってよい場面もたくさんあるのでは?
これって当たり前の話か、
論拠としてほかになんか意味があるんでしょうかねえ……
たとえばいわゆる「ド演歌」っていう感じの演歌のジャンルでは、
歌われる女のパターンって受動的すぎますが、
演歌に対して一定の距離を置いていた阿久悠が言っていたことに、
自分は「どうせ私は~」なんていう言葉は女に歌わせたくない、そして
都はるみの「北の宿jから」について、さわりの部分
♪おんなごころの未練でしょう あなた恋しい北の宿
というのは、「未練でしょうか?」と、未練をまさに訴えるように未練たらしく
言っているのではなく、もう醒めている、
「未練でしょう」と言い切る自立した女ふうなイメージを意識したんだ、
自分の演歌はそういうものだ、
というようなことを彼の本で言っていたのを記憶しています。
あの歌が都はるみらしい、らしくないという論争が当時にはあったようですが、
そうしたそれまでの演歌の感覚の違いというのが、
そういうところにあったのかもね。
さて、これはこのお題のいわゆるひとつのコメントになっておりまするでしょうか?
いや、「でしょう」。
2009-09-28 at 21:51
このブログ主さんは女性アイドルに着目してますが、
私は男性歌手・女性歌手を問わず、「やくざ」というのが
一つのキーになるのではないかと、これを読んで思いました。
北島三郎みたいなばりばりの演歌系はもちろんですが、
裕次郎、アキラ、ひばり、さらにはもっとポップな渡辺プロや
ウェスタンカーニバルを拠点にしていた歌い手たちでさえ
やくざに嫌われてなかったと思います。
興行上の問題というより、感性の問題として私は受け取りました。
2009-09-28 at 23:30
なるほど。
感性の問題としてなら、ヤクザというよりは、無法者アウトローとか、マドロス、
時代のリアリスティックな言い方としては「渡世人」ということではないでしょうか。
流れ流れて漂泊の、世間の価値観には馴染めず、
お天道さまには背を向けるしかないが心意気と侠気をもった
まさに八九三の世界、オイチョカブで言うなら足して十のブタの世界さと自虐する。
狭い世界で、きつい仁義でお互いを規律化し助け合っていかなければならない世界。
でも、ちょっと違うんでしょうねえ。
2009-09-29 at 05:44
> 感性の問題としてなら、ヤクザというよりは、無法者アウトローとか、マドロス、
そんなふうに理解してもらえればぴったり。
漂白みたいなものが歌われなくなった頃、日本社会の感性が大きく変わったのではないか。
何がどう変わったか言えないんで、とりあえず仮説ね。
2009-09-29 at 10:22
さうか、それならキーワードはたくさんありそうですね。
まず、ぱっと思いつくだけで人:
映画・演劇関連……山下耕作・中村錦之助・鶴田浩二・高倉健・藤純子・池部良・長谷川伸・花田秀次郎・清水次郎長・吉良仁吉・黒駒勝蔵・安藤昇・花形敬・木枯紋次郎・潮来伊太郎・関の弥太郎・沓掛時次郎・矢野龍子・田端義夫・北島三郎・石原裕次郎・小林旭・尾崎士郎……お、だんだん近づいてきたかな?
2009-09-29 at 21:24
好きだな~、もう。
「映画・演劇関連」というのは一つのポイントですね。
市民社会が受け入れるのは、本物のヤクザではなくて、フィクションのヤクザです。
とはいえ本物がいなければ、フィクションのヤクザも考えられないわけで、
そのへんから話がややこしくなります。
2009-10-01 at 09:28
そう言われて自分の挙げた人の虚実ともどもの名を見直したら、
おんや……名のある渡世人の名前に、太郎、次郎のつくものばかりだね。
花田秀次郎はご存知健さんの「昭和残侠伝シリーズ」だし、
木枯紋次郎は笹沢佐保の名作シリーズ、
潮来伊太郎は(伊太郎の伊が合ってるかどうか自信なし)橋幸夫の名歌、
関の弥太郎、沓掛時次郎は実在と言われているが長谷川伸の原作と山下耕作、加藤泰の演出、
清水次郎長、石原裕次郎は実在……で知られている。
太郎、次郎は平凡なのか、フィクションとして典型化しやすいのだろうね。
そういやあ、走れコータロウっていうのもあった。こいつは競走馬。
ついでに三好達治を思い出すね。これもそうなんだろうか。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
(djackさん、これに曲がつかないかね?)
2009-10-01 at 11:28
> これに曲がつかないかね?
私のは基本的に鼻歌だからね、メロディはすぐ浮かぶんです。
だけどそのあとがたいへん。あいかわらず楽譜は作れないし、
楽譜はやめて録音だけやるにしても、やっぱり大騒ぎ。
今日、明日は時間もさけないんで、週末にでもやってみます。
2009-10-04 at 10:47
というわけで歌ってみました。
http://www.uraxima.com/parts/music/taro.mp3
三好先生はまだ著作権が生きてるんで、ほんとはまずいんだけど、
ミューズに免じて許していただけないかと。
2009-10-05 at 10:52
おお、聞いた聞いた。
さっそくやってくれるところなんか、いいね、ありがと。
刺激的で、好きだよ~ん!
なんて茶々入れないで印象を。
はじめ、ちと凝ったバックのなかで突如ハスキーな演歌っぽい声が聴こえてきて
おやおやはてなと思って、十回くらい聴いていたら、これが結構狎れ親しめましたね。
三好のこの詩のイメージは抑揚のない声明(しょうみょう)にちかいかなと
感じていたのですが、djackさんのイメージも割りに似ていましたね。
さすが、詩人の感性だなあ。
ヨコへメロディックに時間を感じさせるのではなく
ひたすら深深しんしんとタテへ落ちていくというようなイメージ。
最後の次郎の屋根に雪ふりつむ~の最後のところは、
「曲」として」まとめようかなという意識が働いたのかもしれないけれど。
単なるリフレインでもいいのかもね。未来永劫のリズム。
2009-10-05 at 10:59
このすでに著名な詩と後の振付ける曲という関係は、
けっこうなかなかていへんだ、という感じがしますよね。
後でつけられた曲でがっかりすることはずいぶんあるし
いい例もある。
いいほうではたとえば、子どものころに読んだ宮沢賢治の「風野又三郎」。
どうどど どうどど どうどど どどど
どうどど どうどど どうどど どどど
あまいリンゴを吹きとばせ
すっぱいリンゴも吹きとばせ
だったか(正確にあたってないで記憶で書いているだけで間違ってるかもしれないけれど)で
又三郎が登場するようなときに必ず出てきたこの詩が実際にどんなふうに流れてくるのかは
想像もできなかったけれど、
やはり子どもの時に映画化されたものを観て、
作曲されて歌われていたのを聴いたとき、
おっ、こうか!と、ちと大仰に言えば、痺れるほど感動したのを思い出します。
風が畳み掛けるように襲ってきて、あれあれという感じで
舞い上がっていくイメージがありました。
子どもたちが、まさに得体の知れない又三郎に抱いた好奇心や怖れが
ちゃんと演出されていたんですねえ。
誰が作曲したのか、これは今でも歌えますから、
今度聴かせてあげましょう。
しかし、この資産でもある詩への曲づくりについては、
今朝の朝日の「人」欄にたまたま光太郎の智恵子抄に曲をつけた元劇団四季の
女優のことが紹介されていたけれど、聴いてみたいような聴きたくないような
複雑な気分にさせられもの。
そういう人で、吉岡しげ美という歌手がいて、
その「うた詩集」というCDをもっている。
これについて語るとまた長くなってしまうから、やめときますが、
これは茨木のり子の、あのよく知られた詩「私が一番きれいだったとき」
に実によい曲をつけて歌っている。
これについてはまた……。
それにしても、djackさんのハスキーボイスを聴くと
やはり冠二郎の「旅の終わりに」を思い出すねえ。
冠二郎だけでなく、djackさんの絶唱だね。
それとやはり、小林旭の「さすらい」だし、「ギターをもった渡り鳥」だぜ。
いいね、こういうヤクザチックな歌は。
2009-10-05 at 16:26
感想ありがとうございます。
> 最後の次郎の屋根に雪ふりつむ~の最後のところは、
> 「曲」として」まとめようかなという意識が働いたのかもしれないけれど。
> 単なるリフレインでもいいのかもね。未来永劫のリズム。
あいかわらずメロディ感覚鋭いね。
ここは私も迷いました。単なるリフレインだと、何もしてないじゃないか
と言われそうで、ちょっと色をつけてみたわけです。
> どうどど どうどど どうどど どどど
> どうどど どうどど どうどど どどど
> あまいリンゴを吹きとばせ
> すっぱいリンゴも吹きとばせ
この映画見てますよ。又三郎がビニールの合羽を着てたね、
あとで本を読んだらガラスのマントという設定でしたが。
歌も歌えるほどではないけど、なんとなく覚えてはいる。
>今朝の朝日の「人」欄にたまたま光太郎の智恵子抄に曲をつけた元劇団四季の
> 女優のことが紹介されていたけれど、聴いてみたいような聴きたくないような
> 複雑な気分にさせられもの。
ですね。クラシック系の人が歌謡曲やポップスを歌い直したり、
童謡や唱歌を歌ったりする試みって、試み自体は評価したいけど、
聴いてもたいがい面白くない。表現が平板なのかな。
2009-10-05 at 18:59
クラシック系の歌手は楽譜どおりに歌おうとする、
楽譜が無ければちゃんと歌わないのがつまらない。
同期のAさんのCDを皆で作ったとき、それを痛感したね。
それでもなお、彼女の場合は他のクラシックの女性歌手より情感が深い。
それが彼女のすごいところで、
超有名な鮫島なんたらさんは驚くほど上手いが、心が感じられない。不思議だ。
Aさんが育ったのは、ひばりの歌を歌ったり、茶碗を箸で叩いてちゃんちきおけさを歌ったり
そんな僕らf同様の普通の家庭環境だったからだと思う。
最近カラオケなんかに付き合うこともあって、
ひばりの歌なんか歌わせたら、ほんと、泣けてくるくらいにうまい。
正確に歌いながらね。
2009-10-08 at 08:09
ある編集者が山折哲雄に言ったこと。『演歌と日本人』より。
《ある人物を批評する場合、持ち点を一〇〇点満点として、
知性が四〇パーセント、含羞性が三〇パーセント、
そして最後にヤクザ性が30パーセント――
そういう基準で評価するようにしているんですよ》
で、山折自身は、
《知性だけの人間に魅力がないように、含羞性だけの人間には
個性が感じられない。しかしそこにひとたびヤクザ性という酵母を投入し、
知性と含羞性を撹拌するとき、突然そこに溌剌たる人間性が
浮かびあがってくるのである》
と付け加えてます。あまり科学的な言い方じゃないんで、
でも、まあいいか、気分はわかります。
2009-10-08 at 14:01
気持は十分わかりますね。
逆にこないだ読んだ山折の本には(教養主義を理想としている人はみなそうですが)
彼にしてそのヤクザ性が感じられなかったのがつまらなかった理由だね。
その引用された山折の言葉自体が臭いインテリジェンスそのもので、
知的っぽい<解説>にしかなっていないように思えます。
そういうことをアカデミックな立場にある本人が気づいていない。
たとえば、クラシック音楽へのアンチテーゼ風に歌謡曲を評価するという態度なんかがそういうこと。
知的評価として、ひばりやサブちゃん、アキラを受け止めることなんかできないのとちゃう?
彼らはイイ、としかいえない、感じられないじゃない。
こちらはもう80%がヤクザ性だけで世間と渡り合ってきたけんど、
それなら、ヤクザ性ってなんだろうね。
まず、世間や人様へのコンプレックスだろうし、
欺瞞性に対しては黙ってらんない。“テッテ的に”やっつけたくなる。
世間の価値観や損得にあまり左右されず、
「人の行く裏に道あり花の山」ってなことをひそかに信じたフリして
自分ひとりでも実際にやるってことかいな。
そう、どこかにドスを呑んでいるんだよね。
ひえびえと水をたたえてかくあれば
人は知らじな火を噴きし跡とも
なあんちゃって、と、そう言ってしまう軽さと、猥雑さともにね。
2009-10-18 at 13:34
上の知性40%、含羞性30%、ヤクザ性30%だけど、
これのバリエーションだね。
♪ 友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱
2009-10-19 at 21:34
♪ ああ我、ダンテの奇才なく バイロン ハイネの熱なくも
石を抱きて野に歌う 芭蕉のさびを喜ばず
よく歌ったね、鉄幹。高校に入ったばかりの16歳の頃に。
その影響か、今じゃそんな侠気のようなことばかりでやってるんじゃないかと、
結構ほろ苦く思うこともあるけれど、それはさて、
このテーマの「ヤクザと歌謡曲」に戻ると、
歌謡曲はヤクザから何を学んだんだろうね。
その原型は尾崎士郎の「人生劇場」にあるような気がする。
男も女も。強さも弱さも。無情も意地も。
2009-10-20 at 08:25
尾崎士郎のいた時期の早稲田から、日本の近代演劇、近代歌謡(歌謡曲)
が発生している。人生劇場・青春編にも松井須磨子のエピソードが
ちらっと出てたけど、この時期に島村抱月、松井須磨子らが文芸座を結成、
その旗揚げ公演で抱月の詞に島村家の書生・中山晋平が曲をつけて歌われたのが
最初の歌謡曲といっていい「カチューシャの唄」。このグループから沢田正二郎の
新国劇も派生していて、カルチュラルなものが沸騰していたね、早稲田で。
文学については東大が太い幹だと思うけど、このころの早稲田も文学者を
輩出した。歌謡曲とヤクザという限定からは外れるけど、いろんなものが
交錯した場だったのではないか。
> その原型は尾崎士郎の「人生劇場」にあるような気がする。
> 男も女も。強さも弱さも。無情も意地も。
小説としてそんなに優れたものともいえないけど、
右と左、男と女、下層と上層、あらゆるものをぶちこんで
カオスな世界を作ってましたね。